熊谷朝臣の備忘録

自分のための備忘録です。時に告知板だったり、時に(誰も聞いてくれなかった)自慢話したりします。

ローレンツの話:再録

ちょいと思うところあって、昔、日記に書いたこと再録します。

ゾイデル海の水防とローレンツ」(科学者の自由な楽園、朝永振一郎著、岩波文庫)について思ったことです。

 20世紀初め、オランダで水害防止のため、ゾイデル海の入り口にダムを造ることになった。すると、そのはね返しで、ワッデン海沿岸の潮の上げ下げに影響があるという。ワッデン地方の堤防の高さを決めなければいけないのだけれど、低すぎると高潮の時、大被害が起きる。高すぎるなら、莫大な国費の無駄使いだ。

 この時、この堤防の高さを検討したのは、H・A・ローレンツだった。高校物理程度でもかじったことがある人間なら、電磁気学で必ずその名前を聞いたことがあるだろう、あの大物理学者ローレンツである。ここで強調しておきたいのは、確かにローレンツは人類の歴史に残るほどの大物理学者であるけれど、海洋学も土木工学も全くの素人であったということだ。

 しかし、ローレンツは、最初の潮の干満の観測の段階から、新しい検潮儀の設計を行なった。そして、正常時の潮の干満だけでなく、暴風時の高潮の理論を構築し、その数理的近似解法まであみ出した(理論もこの近似解法も、当時の土木工学者や海洋学者には全く手に負えないものであったという)。

 ローレンツの理論物理で鍛えた数理手法と、やはり天才的な、物理現象を的確に掴む勘によって初めて成される仕事だと思う。

 この件で見習うべきは、その問題に取り組む時の科学的態度だ。現実の問題に取り組む時、経験則が多用される(もちろん、それを否定するつもりはない)。しかし、ローレンツはそれをせず、徹底的に物理学的理論で攻めた。

 まず、単純な理論を立て、(実験室で)実験をし、確認をする。そして、少し複雑な理論に挑戦し、また、実験・確認する。こうして、定常的潮位変動から非定常問題、つまり高潮の理論が完成されたのだった。この単純から複雑な現象の解明の流れの中で、すこしでも躓きがあったら、それが解決されるまで決して歩を進めなかった。

 そう、この科学的能力はとても真似できないけど、この科学的態度は真似できる。

 もちろん、経験則を用いるしかない場合があるのを否定したりはしない。でも、特に環境科学系では実学だとか、人様のお役に立ってこそ、とかを理由にして物理法則から逃げ、精緻な理論を構築することから逃げる傾向があると思う。いやそれどころか、ある実学系の人にとっては、「何を人様のお役に立たないことをやってるんだか?」とか「机上の空論ばっかりやりおって!」と、理論に拘る人をまるで”理論に逃げている”かのように見ているようだ。

 僕は”理論”から逃げたくない。僕の科学的能力はたかが知れているようなもので、理論に拘った結果、何も結果を生み出さない可能性だってある。だけど、科学的態度だけは堅持したい。これだけが、環境科学という分野で僕が”科学者”を名乗っている理由だ。

 ゾイデル海の工事が終わったのは確か1930年頃。その後、幾度となく高潮の被害が防がれたが、1950年頃の異常高潮の際においても、ローレンツの理論・計算結果の正しさは驚くほどであったという。・・・徹底的に理論に拘った結果だと思う。精緻な理論で構築された策は、どのような条件に対しても”柔軟で堅固だ”と信じる。