熊谷朝臣の備忘録

自分のための備忘録です。時に告知板だったり、時に(誰も聞いてくれなかった)自慢話したりします。

父のこと

 父が亡くなって、もう2週間が過ぎた。少し、落ち着いてきたので、なんか書こうかなと思う。父は、それはそれは変わった人だった(いくらでも話題が出てくる)ので、少しづつ、ここで披露したい。

 下の写真は、大学の僕の部屋。2017年12月の上旬のこと、父は、すでに末期ガンを宣告され、一切の治療を拒否して一か月以上が過ぎていた。お医者さんによると、この段階で既に余命の範囲内で、いつ死んでもおかしくない、今、動けるはずがない、とのことだった。が、父は、最後の挨拶で東京にやって来た、自分の足を使って。

f:id:kuma_biogeo:20180411142321j:plain

 で、僕の研究室にやってきたのだけど、ドアを開けるなり、真っ直ぐ僕の机に向かい、イスに座り、そこら辺中にある本やら書類を開いて机の上にばら撒いた。で、

どうだ、東大教授に見えるか?

そして、

おい、俺の写真を撮れ

とのこと。結局、この時、一緒に写る人を変えて3枚の写真を撮ったのだった。

 

 父は、実に正確に自分の死期を予測していて、亡くなる日の朝、はっきりと「今日、自分は死ぬ」と言ったくらいだった。

 その日の朝の”数値”は、そんなに悪くなく、

「父ちゃん、頑丈だから、神様はそんなに簡単に死なせてくれんよ。もうちょっと頑張ったら(高校の)クラス会だから、もうちょっと頑張んなさいよ。」

と言ったくらいだった。それに対し、

「冗談言え。おい、先生(お医者さん)呼んで来い。」

とのこと。それで、お医者さん呼んで来たら、お医者さんの手を握って、

「今まで、ありがとう。俺は今日、死ぬ。本当にお世話になりました。」

でも、お医者さんも”数値”を見て、

「熊谷さん、お礼を言ってくれるのはありがたいけど、それは、まだ早いですよ。まだまだ大丈夫ですよ。」

と言った。・・・結果的に、父の”予測”は、実に正確だった。

 父の(末期ガン宣告から)最後の5ヶ月(今、気が付いた。そんなに、もったのか!!)は、まったく闘病という言葉とは無縁だった。なんせ、まったく病気と闘わないんだから!!こんな自然態のガン患者っているのか!!

 自分の死ぬ時期を正確に予測し、自分が生きている間にやっておかなければならないことを完全にスケジュール化して、そして、完全にこなした。実は、上の写真も、そのスケジュールの一つで、父は、僕の部屋で撮った3枚の写真をプリントアウトした上で、その中で一番気に入った写真ー上の写真ーを自分の葬式写真として指定していたのだった。しかも、よっぽどこだわりがあったのか、複数の友人に「俺の葬式写真は、これだからな。間違えないようにな。」と言い残して、”安全装置”を掛けていたのだった。

 もともと、何物にも囚われないホンモノの自由人でした。常に飄然としていて、やりたい放題の人生でした(・・・家族にとっては、結構な迷惑でしたが・・・はは)。それは、死に際してもまったく変わりありませんでした。死に際しても、こんなにも飄然としていられ続けられるものなのか。スゴイ男だったな、と心底思います。(あんなにも自由に生きるのは絶対無理ですが)僕も、そうありたいと願いました。

 父のこと、また、思い出したら、書きます。