熊谷朝臣の備忘録

自分のための備忘録です。時に告知板だったり、時に(誰も聞いてくれなかった)自慢話したりします。

「No. oneじゃなくてOnly one」って言葉は嫌い

SMAP、結構好きなんで、これからどうなるのか気になるところです。

・・・じゃなくて、表題なんですが、

No. oneじゃなくてOnly one

って言葉、嫌いなんですよね。結構これ、逃げに使われてるんじゃないかと思って

 いや、別にそんなに深い意味あるわけじゃないんですが、最初からOnly one狙うのは、競争や鍛錬や、本当にきついことから逃げることになりがちだと思うのです。

 王道、多くの人が歩む道・歩みたがる道を敢えて行って、そこでNo. one目指すのって、大変なことですよ。絶対的な能力と努力のコンビネーションが必要ですよ、きっと。だから、まずは、王道を行き、そこでNo. one目指すべきだと思うのです。

 そして、挫折しても良いと思います。もちろん、より自分の好きな道、歩むべきだと信じられる道を見つけるのも良いでしょう。そこで、初めて、Only oneを意識するべきだと思うのです。だから、よく、こんな風に言います。

まずは、No. oneを目指せ。Only oneはその後についてくる。

みなさま、心に留めておきましょう

なんだろね?って題名ですが、僕の周りで一緒に仕事してる(若い)みなさんへのアドバイスです。為末大さんがこんなこと言ってました。

”完璧”しか選択肢が無い人は、結局、何も成し遂げることのないまま人生を終える。

 僕には研究のことしか言えません。なので、こんな例にします。

「これができたら、結論を下す(=論文を書く)。」とか「まだ、これではダメだ。満足いくところまで行ってからでないと結論は出せない(=論文は書けない)。」とか言う人、そんな人は、いつまで経っても、永遠に、結論を出しませんね。つまり、論文を書きませんね

 研究だって何だって、もちろん、やるからには完璧を狙うべきでしょう。でも、同時に、研究だって何だって、完璧ってのはあり得ないってことも認識しておかなければならないと思うのですよ。僕らは、”完璧”という絶対に辿り着けないって分かっているゴールに向けて走っている・走らなければならないって存在なのです、きっと。

 完璧であろうがなかろうが、僕らは前へ進むしかない、それだけは確かなことなのです。

 だから、僕らにできることは、小さな問題を設定して、それがクリアされたら、とりあえず、それについて結論を下す。もちろん、まだまだゴールは先だけれどもはるか遠くにあるであろうゴールを夢見ながら、まだまだ走り続ける闘志を忘れず、ですよ。

 人間は必ずミスを犯します。最終ゴールには、その途中の小さなゴールへの到達の積み重ねでしか辿り着けないと思います。じゃないと、どうやって、ミスを修正してより良いものを生み出すことができるでしょうか。

 もう一度言います。「まだ、これではダメだ。満足いくところまで行ってからでないと結論は出せない(=論文は書けない)。」って人は、走り始めから、いきなり最終ゴールに辿り着こうと考えてる虫のいい人です。

 為末さん的な言い方にするならば、試合に出続けましょう。いきなりベストタイムを出すなんて虫のよいことを考えるのはやめましょう。試合の度に、課題があるはず、それをクリアして行こう。その先に最高の記録があるはずだから。じゃないですかね。

 

「沈黙」が映画になったどー

好きな本を3冊挙げろと言われたら、絶対選びます。そう、遠藤周作「沈黙」です。

 で、なんと、映画化が進んでたんですね。来年1月21日にはロードショーですよ。

chinmoku.jp

監督はマーティン・スコセッシ、彼なら日本の描写も変なことにならないでしょう。

 かって、篠田 正浩監督で映画化されてるようですが、一番大事なところが省略されてると酷評されてます、僕は見てないのですが。今回も、小説の深みが映画に再現できるのか?という心配のむきも一杯ありますね。意味不明な映画紹介とか批判とか、よく見られます。ま、その辺は、きっと、まともに原作の小説読んでないのでしょう

 スコセッシは、「タクシードライバー」のイメージが強いです。あの映画の監督なら、絶対大丈夫と信じてます。

 あー楽しみ。

 

 

現実逃避

 毎年の事ですが、この時期になると、

科研書けんのや

を連呼します。あと、「向いてないのかな、この仕事・・・。」とか。で、つい余計なこと、しちゃったりします。最近出版された本の宣伝したりね。

www.cabi.org

チャプターの一つ「熱帯森林水文学」を書きました。結構頑張って書いたつもりです。僕のチャプターだけでよろしければ、ご連絡下さい。pdf差し上げます。

 ああ、Natureに、こんな記事出ましたね。

www.nature.com

実は、このHansenさん、チャールズ皇太子主催のワークショップ

http://tomo-kumagai.eco.coocan.jp/0513.html

で、一緒に招待されてて、ホテルで朝食取ってたら、

「一緒に食べて良い?」

って言われて、内心「うぉぉ、あのHansenじゃぁ!」とか興奮しつつ、でも平静を装いつつ「あぁ良いよ。」なんて言って、2人で結構長い朝食を楽しんだ思い出があります。

 でも、正直、このレベルの仕事は、日本でもやられてるんじゃないかなと思うんですが、実の所はどうなんでしょう?結局宣伝が上手なのでしょうか。向こうはGoogleとくっ付いてますしね。

 ・・・でも、やっぱり、決定的な違いは、批判に晒されることを承知で果敢にレベルの高いジャーナルに発表し続けてることかも知れません。Hansenさんの研究は、発表される度に、その前に受けた批判に打ち勝つロジックを加えられているような気がします。わざと何者かにぶつかっていって、その度毎に磨き上げられている感じがするのです。

 日本の私たちの分野に欠けているもののような気がします。

査読結果に対するヒトラー教授の反応

歴史的にヒトラーのやったことからすると、これは不謹慎なことなのですが、パロディとしては、やはり、(研究者から見ると)相当面白いので紹介します。論文書けなくて悩んでる人は、これ見て元気出してください。

www.youtube.com

頑張りましょう(僕もね)。

ローレンツの話で言いたかったこと

 前回の話の続きです。何が言いたかったかって言うと、

狭き門より入れ、滅にいたる門は大きく、その路は廣く、之より入る者おほし。(「狭き門」アンドレ・ジイド、の冒頭に登場する聖書の言葉)

なのです。もしくは、

王道を歩め。

でしょうか。

 僕らの分野は、応用科学であり実学です。色んな分野の科学を結集して事に当たらなければなりません。でも、本当の科学の花形は、純粋な数学であったり物理学であったり、分子生物学であったりします。そして、本当に優秀な人は、そんな純粋な分野にいます。それは、日本で、本当に運動神経の良い人は、野球というスポーツに集中していることに似ていると思います。僕らは、まず、それを認める必要があると思うのです。

 だから、まずは、”狭き門”に入り、”王道”を歩むべきだと思うのです。そして、もちろん、興味に応じて、でも良いし、使命感に駆られて、でも良いでしょう、能力の限界を感じて自分の向く道を決める、だって良いのです。まずは純粋科学(と呼ばせてください)に興味を持つべきです。少なくとも、それを勉強の中心に据える時期があるべきです。

 僕の話ですが、もちろん、僕には数学者物理学者になる能力はありません。が、それを使って、地球を守ることはできるぞ、森を守ることはできるぞ、環境科学、特に、森林の環境に関する科学をやるぞ、と考えました。だから、一生懸命、数学や物理学、化学、生物学の基礎を勉強しました。もちろん、その専門の学者になることはなかったですが。

 で、王道としての学問分野は、地球物理学の一分野、生物地球科学であると定めました。森林科学は生物地球科学の一部であると考えたのです。だから、僕の主要学会は、アメリカ地球物理学連合(American Geophysical Union: AGU)となったのです。格闘技的な物の言い方をするならば、

自分より強いヤツをが一杯いるところに行って、みんな倒して最強になる。

を目指したのです。どんだけ道は遠いのかって感じではありますが、自分に言い訳しながら歩んで行くのだけはまっぴら御免だ、と思ったのです。

 僕の分野に興味を持つ若い人たちに言いたいことです。堂々と狭き門を入り、王道を歩みましょう。歩きやすい道は、大抵の場合滅びに至る道です。

(最近、「ブログ読んでます」って言う若い人が増えたんで、柄にもなく、こんなこと言ってみました。)

 

 

ローレンツの話:再録

ちょいと思うところあって、昔、日記に書いたこと再録します。

ゾイデル海の水防とローレンツ」(科学者の自由な楽園、朝永振一郎著、岩波文庫)について思ったことです。

 20世紀初め、オランダで水害防止のため、ゾイデル海の入り口にダムを造ることになった。すると、そのはね返しで、ワッデン海沿岸の潮の上げ下げに影響があるという。ワッデン地方の堤防の高さを決めなければいけないのだけれど、低すぎると高潮の時、大被害が起きる。高すぎるなら、莫大な国費の無駄使いだ。

 この時、この堤防の高さを検討したのは、H・A・ローレンツだった。高校物理程度でもかじったことがある人間なら、電磁気学で必ずその名前を聞いたことがあるだろう、あの大物理学者ローレンツである。ここで強調しておきたいのは、確かにローレンツは人類の歴史に残るほどの大物理学者であるけれど、海洋学も土木工学も全くの素人であったということだ。

 しかし、ローレンツは、最初の潮の干満の観測の段階から、新しい検潮儀の設計を行なった。そして、正常時の潮の干満だけでなく、暴風時の高潮の理論を構築し、その数理的近似解法まであみ出した(理論もこの近似解法も、当時の土木工学者や海洋学者には全く手に負えないものであったという)。

 ローレンツの理論物理で鍛えた数理手法と、やはり天才的な、物理現象を的確に掴む勘によって初めて成される仕事だと思う。

 この件で見習うべきは、その問題に取り組む時の科学的態度だ。現実の問題に取り組む時、経験則が多用される(もちろん、それを否定するつもりはない)。しかし、ローレンツはそれをせず、徹底的に物理学的理論で攻めた。

 まず、単純な理論を立て、(実験室で)実験をし、確認をする。そして、少し複雑な理論に挑戦し、また、実験・確認する。こうして、定常的潮位変動から非定常問題、つまり高潮の理論が完成されたのだった。この単純から複雑な現象の解明の流れの中で、すこしでも躓きがあったら、それが解決されるまで決して歩を進めなかった。

 そう、この科学的能力はとても真似できないけど、この科学的態度は真似できる。

 もちろん、経験則を用いるしかない場合があるのを否定したりはしない。でも、特に環境科学系では実学だとか、人様のお役に立ってこそ、とかを理由にして物理法則から逃げ、精緻な理論を構築することから逃げる傾向があると思う。いやそれどころか、ある実学系の人にとっては、「何を人様のお役に立たないことをやってるんだか?」とか「机上の空論ばっかりやりおって!」と、理論に拘る人をまるで”理論に逃げている”かのように見ているようだ。

 僕は”理論”から逃げたくない。僕の科学的能力はたかが知れているようなもので、理論に拘った結果、何も結果を生み出さない可能性だってある。だけど、科学的態度だけは堅持したい。これだけが、環境科学という分野で僕が”科学者”を名乗っている理由だ。

 ゾイデル海の工事が終わったのは確か1930年頃。その後、幾度となく高潮の被害が防がれたが、1950年頃の異常高潮の際においても、ローレンツの理論・計算結果の正しさは驚くほどであったという。・・・徹底的に理論に拘った結果だと思う。精緻な理論で構築された策は、どのような条件に対しても”柔軟で堅固だ”と信じる。